関係者様

やっと今年の猛暑から解放され、しのぎやすい日が多くなってきました。
『山崎通信』第44号をお届けいたします。

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____山__崎__通__信_____________2007.9.6_第44号
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┃死んだ者と生きのびた者
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 8月が過ぎました。62年前の終戦の日は、死者を迎えるお盆の日でもあり
 ました。

 悲惨な戦争でした。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残す
 ことなかれ。」東條陸軍大臣が出した戦陣訓に従い、多くの国民が自らの
 命を絶ちました。敵軍が迫り赤ちゃんを抱えて崖から海に飛び込んだ
 サイパンの若いお母さん。特攻命令を受け、敵艦に突っ込み死んでいった
 若者。ニューギニアやフィリピンやインパールで餓死寸前になったあげく、
 玉砕命令により突撃して死んだ兵隊たち。私の祖父の弟もその一人でした。
 アメリカの原爆や無差別爆撃では何十万人の老若男女が殺されました。

 そして敗戦。「一死をもって大罪を謝し奉る。」自刃して果てた阿南惟幾
 陸相。生きて占領軍に捕らえられ、戦争犯罪人の名を残して死んだ東條
 英機元首相。

 子供のころ、祖父に聞きました。「どうして勝てるはずのないアメリカと
 戦争をしたの。」祖父の答えは、納得のいくものではありませんでした。

 孫子曰く「用兵の法は、少なければ則ち能くこれを逃れ、若からざれば
 則ち能くこれを避く。故に少敵の堅は大敵の擒(きん)なり。(戦争の
 原則は、兵力が少なければなんとか退却し、力が及ばなければうまく
 隠れることだ。だから、兵力が少ないのに強がれば、敵のとりこになる
 だけだ。)」兵士と国民を大事にするのが孫子の要諦でした。

 兵力で大きく劣り、戦争に不可欠な石油も鉄スクラップもアメリカに依存
 した日本が、そのアメリカと戦ったことは、まさに孫子の兵法に反して
 いました。勝てない相手と戦えば国が滅び、国民が苦しむ。明白な愚行に
 なぜ戦前の日本は突っ込んでいったのでしょうか。止める人はいなかった
 のでしょうか。最大の疑問でした。

 犬養毅がいました。「明治維新を中国に」と孫文らの革命運動を頭山満ら
 とともに支援しました。まさに、「ちっぽけな日本が今頃になって侵略
 など気狂い」、「中国こそ大きな市場、つきることなく沸く利益の源泉」、
 「中国とは同盟して兄弟国となり、敵に回すのは下策」と中江兆民が
 1887年に三酔人経綸問答に喝破した考えを実践しました。

 犬養毅の方針通りに日本が進んでいれば、アジアの歴史は違っていたで
 しょう。日本が中華民国を支援し、伝統的に門戸開放を唱え自由貿易論の
 アメリカも巻き込んで、北東アジアに経済共同体を作り、ヨーロッパの
 植民地争いをよそに、太平洋は繁栄を続けたでしょう。孫文の予言どおり、
 日本は「アジア民族にして傾倒崇拝しないものはない」リーダー国家に
 なったでしょう。そして、中国共産党が天下を取ることはなかったかも
 しれません。現に、毛沢東は、日本の中国侵略こそ、共産党の勝利に
 大きく貢献したと言明しています。

 しかし、満州事変を平和裏に解決しようとした犬養首相は、五・一五
 事件で海軍軍人に殺されました。

 高橋是清もいました。犬養首相の下で蔵相を務め、のちにも無理な軍備
 拡張を抑えようとしました。しかし、高橋蔵相は二・二六事件で陸軍
 軍人に殺されました。

 犬養毅を殺したあとに作られた満州国で実権をふるったのが、二キ
 三スケ、と呼ばれた関東軍参謀長東條英機、満州国総務長官星野直樹、
 満州国産業部次長岸信介、満鉄総裁松岡洋右、日産グループ創立者
 鮎川義介、の五人でした。松岡と鮎川と岸信介は親戚でもあります。

 松岡洋右は、1933年には日本の首席全権として国際連盟を脱退しました。
 のちにヒトラーに傾倒し、1940年には近衛内閣の外相として強引に
 日独伊三国同盟を結び、日本と英米との対立を決定づけた張本人でした。
 ドイツとアメリカは、日米開戦と同時に三国同盟によって交戦状態に
 入ったのです。ナチスドイツに追い詰められ、アメリカに参戦を必死で
 呼びかけていたチャーチルのイギリスにとっては、日本は救世主の役割
 を果たしたのでした。

 東大法学部の首席を我妻栄と争った大秀才のエリート官僚岸信介は、
 北一輝の国家改造計画やナチスドイツの計画経済から多くを学んで頭角
 を現し、請われて赴任した満州国で近代的な計画と統制の経済を実践
 しました。帰国後は商工次官、さらに東條内閣の商工大臣として戦時の
 国家総動員体制を整備しました。いまに残る1940年体制(野口悠紀雄
 先生の造語)の創始者の一人でもあり、いわゆる革新官僚の筆頭でした。
 そして、国内の労働力不足を補うための中国人や朝鮮人の移入と強制
 連行、つまり組織的拉致の最高責任者でもありました。しかし、日本の
 防衛線と呼んだサイパン島が陥落すると、日本中が空襲され敗戦が確実
 になるとして戦争継続に反対して東條首相と衝突、辞任しました。
 これをきっかけに東條内閣は総辞職しました。気骨の人でもありました。

 終戦後は占領軍からA級戦犯として逮捕された岸信介は、A級戦犯処刑の
 翌日の1948年12月24日、不起訴になり釈放されました。戦後のソ連や中国
 との対立から、日本を反共の防波堤とすることがアメリカの方針になった
 からといわれています。「冷戦の推移はわれわれの唯一の頼みだった。」
 と本人が鋭い読みを語ったように、冷戦が極刑をも予想した岸信介を救い
 ました。国家社会主義の手法を使って対米戦争を推進した岸信介は、戦後
 は反共主義者としてアメリカの強力な同盟者の道を進みだしました。

 岸信介は、東京裁判を茶番だとして嫌悪していました。もっともです。
 国際法に規定がなかった平和に対する罪、人道に対する罪、などの理由で、
 戦争と植民地征服を繰り広げたヨーロッパ諸国や、原爆や空襲で市民を虐
 殺したアメリカや、平和条約を破り日本に一方的に戦争を仕掛けたソ連に、
 日本を裁く資格がないのは、インドのパール判事の反対判決にあるように
 明白でした。「戦争責任ということに関していえば、アメリカに対して
 戦争責任があるとはちっとも思っていないよ。」反発した岸信介は、
 一生マッカーサーに会わなかったそうです。

 けれども、岸信介は続けます。「しかし、日本国民に対しては、また
 日本国に対しては責任がある。ともかく開戦にあたっては詔書に副署
 しているし、しかも戦争に敗れたという責任は自分たちにある。」
 (「岸信介証言録」原彬久編、毎日新聞社)これも自明のことです。
 さらに、パール判事が指摘するように、日本がアジアの大変な数の
 諸国民に過ちを犯し、悪事を働いたことも、明白です。

 勝者による一方的裁判はおかしいですが、正式に日本人の手で、つまり国
 民の代表たる政府の手で、何百万人の国民を死に追いやった指導者や官僚
 たちの責任も戦争自体の総括もなされていないのです。
 これでは、真の戦後の総決算も独立国たる証明もなされていないのも同じ
 です。エイズ、年金、いまに続く日本の政府や役人の無責任体質の根源を
 形作っているといえるでしょう。

 巣鴨プリズンを出た岸信介は、満州人脈を中心に早速政治活動を開始しま
 した。公職追放が終わると、保革合同を試みて失敗し、さらに同級生の三
 輪寿壮に社会党入党を頼んで断られました。のちにも、社会党が西欧型の
 社会民主主義に転換して自民党と二大政党制で政権交替を争えばいい、と
 いう考えを持っていました。「社会主義とか資本主義とかいうけれども、
 要するに結果が善ならばいいんだ。」、「社会主義的な政策もどんどん取
 り入れることが重要。」と言った岸信介は、「白い猫でも黒い猫でもねず
 みを取る猫はいい猫だ。」と言って毛沢東の文化大革命から資本主義に
 中国を転換したケ小平(トウショウヘイ)に通じるものがありました。
 保守だけが正しい、という孫の現首相とはずいぶん違いました。

 岸信介は、そうした試行錯誤を経てから保守合同を実現し、自由民主党
 の初代幹事長になりました。今に続く自民党長期政権の創始者になりまし
 た。さらに、病に倒れた石橋湛山首相に指名されて自民党総裁に、そして、
 1957年に総理大臣に就任しました。総理としては、最低賃金制や国民年金
 などの社会保障制度を創設したのち、吉田茂が結んだ日米安保条約を改定
 し今日の形にしましたが、安保反対闘争の混乱の責任を取る形で安保改定
 成立直後に辞任しました。こうして日米同盟ができ、戦後日本の繁栄の基
 礎が築かれました。

 新憲法下の総理だったにもかかわらず、岸信介は熱心な憲法改正論者で
 した。とくに、「反共防衛」「反中国」「反ソ」のためには、憲法9条を
 廃止して本格的な再軍備を行い、それに伴って安保条約をさらに改正し、
 アメリカとの相互防衛義務をもつ完全に対等の軍事同盟にすることを
 生涯の目標にしていました。岸信介が首相であったのは、日本のすぐ隣で、
 ソ連と中国に支援された北朝鮮が韓国を侵略して朝鮮戦争が始まり、また
 東欧諸国などがソ連の衛星国にされた時代でした。国内でも、暴力革命が
 叫ばれていました。

 岸信介は、巣鴨プリズンで知り合った児玉誉士夫をはじめとした右翼や
 暴力団とのつながりを、政権獲得や安保闘争鎮圧など様々に利用したと
 されます。また、満州国が組織的に関わった麻薬取引や戦後のアジア諸国
 への賠償金を資金にしていた疑惑も持たれました。このように、抜群の
 能力を持ち、戦争と乱世を生き延び、力を握り、国家の頂点に立った姿
 から岸信介についたあだ名が「昭和の妖怪」でした。

 そうした評価の一方で、岸信介は、吉田松陰に傾倒し、孟子を学び、
 上杉慎吉からも美濃部達吉からも学び、北一輝に傾倒して私有財産の
 否定を是としました。かと思うと戦後は、国家が究極に守るものは人々
 の自由であり、それは民族統合の象徴たる天皇を守ることよりも重要で
 あるとします。共産主義に反対するのは、自由を束縛するからです。
 こうして、岸信介が、さまざまな知識を吸収し、それを見識にまで
 高め、行動に移し、難しい問題を解決し新しい時代を切り開いたことも
 確かです。本人は、自らを信長タイプであるとしていました。敗戦を
 生き延びた岸信介は「一個の巨大な政治的複合体」(原彬久)とも
 いえる仕事を残して91歳の天寿を全うしました。

 しかし、多くの若い有為な人材が、戦後日本を見ることなく、
 死んでいきました。遺骨もわからない人も大勢います。「古来人骨
 人の収むるなし、新鬼煩冤し旧鬼哭し、天曇り雨うるおうとき声
 啾啾たるを。」これでは浮かばれません。

 昨年の自民党総裁選に際しては、当時の安倍候補が書いたマニフェストの
 はずの「美しい国へ」という短い書物が出版されました。
 その中では、祖父岸信介の満州国や東條内閣での役割はおろか、A級戦犯
 であったことにも触れていませんでした。岸信介が自ら認めた日本国民と
 日本国への戦争責任についても一言も触れていません。それどころか、
 特攻隊の若者は「死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつも、
 日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。」と美化されま
 した。祖父たちの責任で死んでいった多くの国民への懺悔や謝罪の気持ち
 など「美しい国へ」のどこにも記されていないのです。まして、アジアの
 人々への責任に関する記述などどこにもありません。
 それどころか、A級戦犯は国内法では罪に問われていないと開き直ります。
 そして、祖父岸信介が安保改定を行い日米同盟と戦後日本の繁栄の基礎を
 築いたという面だけが、強調されてきました。

 岸信介の全体像は、去年の総裁選当時も新内閣ができた現在も、マスコミ
 からもほとんど伝えられませんでした。祖父岸信介の遺志を継いで、新内
 閣でもあくまで憲法改正を目指すという以上、祖父の全体像を多角的に国
 民に報道するのが、公器たる報道機関の義務のはずですが、責任放棄した
 といわれてもしかたありません。一面しか報道をしないというマスコミの
 体質は変わっていないようです。
 戦前は満州事変以来の戦争を煽りました。戦後は、毛沢東の文化大革命を
 礼賛しました。近くは、小泉政権の道路公団や郵政の民営化を手放しで
 礼賛しました。いずれも、物事の本質を見れば、危うさが分っていたこと
 でした。安倍首相が誕生するときは、アイスクリームが好きとか、夫人と
 手をつなぐといったことばかり話題になりました。

 何百万人もの日本人が死んだ責任を、祖父岸信介は認めています。
 独立国であれば、過去の政府の国民への責任を明らかにするのは、いまの
 政府の使命です。外国に任せることではありません。その使命を日本が
 果たしてこそ、ヨーロッパのアジア侵略の歴史、アメリカの原爆投下、
 戦後の共産主義国の圧制と暴力、などを批判する資格があるでしょう。
 また、近代以降の日本の苦闘の歴史へも国際的な理解と共感がえられる
 でしょう。そして、日露戦争ではじめて西洋を破った日本が、世界中の
 有色人種に勇気を与えたことも正当に評価されるでしょう。
 この大切な使命を放棄しておいて、安倍首相が「本当の独立」を唱える
 とは、なんという矛盾でしょう。

 憲法は国の運命を変えます。政治も経済のその基礎の上に立ちます。
 明治憲法が大日本帝国の興亡を司りました。戦後日本は、日本国憲法の
 上に築かれました。歴史の真実や責任に向き合わない政権に、憲法改正
 ができるのでしょうか。過去の歴史の正確な認識なくして、現在と将来
 の世界はわかりません。憲法改正を発議するなら、少なくともアヘン戦争
 以来の日本の歴史、そして、コロンブス以来の世界の歴史への認識なく
 しては、正しい方向は得られないでしょう。

 私は拙著「米中経済同盟を知らない日本人」の110ページもの分量を
 「戦争か平和か」という章に当てました。お勉強に付き合わされて迷惑
 だった、という苦情もいただきました。しかし、いまの世界の本質を知る
 には、コロンブスから始まり500年近くも続いた経済圏獲得のための戦争
 の時代、50年続いた冷戦の時代、そして、冷戦もできなくなった21世紀の
 米中経済同盟の時代、それぞれの構造を明らかにしなくてはいけないと
 思ったから書きました。

 巨人岸信介は、時代の大変化の中心にいて、一貫して指導者であり続けま
 した。しかし、冷戦が終わる前に亡くなりました。今、孫の総理が直面し
 ているのは、祖父とはまったく違う世界なのです。
 それなのに、祖父の遺言を守って、憲法とこの国を変えたいというのです。
 この国が、過ぎ去った過去に生きて将来を誤らないために、ムードに流さ
 れず、英知を絞り、真剣で多角的な議論をするときです。

 皆様への今回の通信は、ここまででも相当の分量となりました。
 世界と日本のあり方と憲法については、次回の通信でさらに論じることに
 いたします。


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 ●次号は2007年10月上旬にお届けいたします。どうぞお楽しみに!

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